僕が通りすがりのオネエちゃんの足首から太ももまでの美しさに目を奪われている間に、
一体何を考えていたのであろうか??
僕の中で1つの答えが出た。
それは、僕の器は小さいと言う事だ。
悲しくなる。
確かに、そりゃぁ、なりたいよ。
「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル」宮沢 賢治
こんな風になりたいよ。
僕がこんな事を考えている間も、
地球温暖化対策として世界の風力発電は20%も伸びてるし、
こんな事件も起こっている。
最近ね、悲しい出来事があってね、やはり少し後悔してる訳よ。
もっとこうしとけば・・なんて思ったりしたわけよ。
約束をすっぽかされた時に、一人で
一風堂でラーメン食べてん。
味はあんま美味しなかってんけどね、
そこで、一人で考えてたわけよ。
このすっぽかされた事をどう捉えるかをね、考えてたわけよ。
つくづく自分の器の小ささに驚嘆しましたよ。
やはり苛立ちを感じたわけです。
でもね、今となればこうも思うのです。
我慢して人を愛すると言う事が大切なんだ。
今となればね、こうも思うわけですよ。
ワインだって、年月を重ねると美味しくなるわけでしょ。
我慢が足りないのだろう。
この我慢ができるって言う事も器が大きい事につながる気が、今はしてるんですよ。
要は保身なのかもしれない。
自分が楽になりたいだけかもしれない。
自分に甘く、人に厳しいのかもしれない。
最悪やね。
「許容」
この瞬間この言葉にひどく憧れている訳ですよ。
非常に甘美な言葉の響きである気がしてるわけですよ。
いくら、温泉に浸かったって、疲労が回復してるか分からないし、
動物園の猿がいくら頑張っても人間にはなれないわけですよ。
そんなある種の理不尽な発言さえも許せるか否かと言うことに関わってくるわけですよ。
新しく無いのに新大陸を発見したって言ったって、
自分達を中心に東側をオリエントなんて言ったって、
あまり差別発言なんて言わない様に
ゆっくりと、しかし、確実に僕の器は小さいんだと言う事のみが
今の僕を締め付けてるんですよ。
最近食べ物を残すシーンに出会う機会が多くあったんですよ。
決して喜ばしい光景ではないやんか。
なんだろうか?この感覚って思ったんです。
農業と言うものに興味があるが、
実践していない愚か者の僕が偉そうなことは言えないし、言おうとも思わないよ。
でもね、農業に敬意は払っているつもりやねんよ。
例えばお米について考えてみるとね、
僕が今稲を植えても、当たり前だが出来るのは1年後だ。
つまり、僕にお米の作るキャリアが30年あったベテランだったとしても、
たった30回しか作ってないわけですよ。
これは気付きにくい点やけど、大切な視点やと思うわけですよ。
だからお米(食べ物)を残す事に抵抗を感じてるわけですよ。
でもね、食べ物を残す人がいたとして、
その人に文句を言う事も良いのでしょうが、
その人を、ある意味許容すると言う精神も大切かもしれないやないですか。
そう思うと、何て自分は器が小さいんやって思うわけですよ。
取り止めがなくなってきましたが、
最後に言いたいのは、
もしかしたらこんな僕が
悲しい思いをさせててしまっていたなら
素直に謝りたいなって思っているんですよ。
いざと言うときに携帯は便利なようで不便だしね。
でもね、これも自分が楽になりたいだけ、
つまり、単なるカタルシスなだけかもしれないんですよね。
しかし、別れはいつも悲しいのは事実なんですよね。
僕がダンスフロアーで踊っているオネエちゃんに目を奪われている間にも、
こうして時は流れていくし、
その時は二度と帰ってこないし、
あとでいくら後悔しても遅いわけで、
今も僕の器は小さいままだ。